銀次のブログ

日々の何気ない思考を書き連ねる

坊主のお経に科学的根拠はない

知人の猫が亡くなって荼毘に付された。

手厚く弔われた話を聞くにつけ、こんなに愛された猫はきっと幸せな生涯だったろうなと、しみじみ思う。

 

 

😺😺😺

 

 

【猫の火葬】

知人が頼んだ専門業者は、個別火葬が2万5千円ほど。プレミアムプランにすると5万数千円で、棺桶諸々のクオリティが上がり、和尚のお経までつくらしい。

 

 

知人は「お経には何の科学的根拠もないし、そこまでしてって感じだから、個別火葬だけ頼んだ」と言った。

 

 

わたしは「お経に科学的根拠はない」という台詞が妙に気に入って、頭の中で何度か復唱した。

 

 

わたしも実際、和尚のお経には何の功徳もないと思っている。もしもお経や念仏に何かしらの力があるとしたら、和尚以外の誰が唱えてもその効果を発揮するはずだし、ただの言葉の羅列でしかないもんねえ。

 

 

と、そこで思い出した。

 

 

言霊がある。

 

 

一般的にはどうかわからないけど、わたしの勝手な解釈で、言霊には放つ者の想念が含まれている

 

 

なので、「ありがとう」と言いながら内心では相手の不幸を望んでいた場合、その「ありがとう」は表面的にはポジティブなんだけど、そこに含まれる想念は呪詛と化している。

 

 

なら逆に、「死ね」という言葉に最高の愛を込められたら、「死ね」も最大の祝福になるのだろうか。それとも、刷り込まれた言葉の意味と想念が反発してうまく作用しないだろうか。

 

 

ま、そんなことはどうでもいいのだけど笑

 

 

兎にも角にも、和尚が死者の成仏を願い、真心を込めてお経を唱えた場合、そのお経にはやはり何かしらの霊力が含まれるのかもしれない。

 

 

そして、あらゆる言霊が想念とセットで効果を発揮するのなら、べつに和尚が読んでも一般人が読んでも、やっぱりその効果になんの違いもないはずだよね。出だしにリフレイン笑

 

 

おあとがよろしいようでw

 

(この記事は令和3年1月に書かれたものです)