銀次のブログ

日々の何気ない思考を書き連ねる

夏、海、花火に行くだけの人生

今朝、出勤時に外が全然暑くなくて、ああ、いよいよ今年の夏も終わりを迎えようとしてるのかと感慨深くなった。
東京に越してきて8年、海に行った記憶はない。花火を見たのは8年前が最後。あの日、わたしはハッキリと友人に宣言した。


「人生で花火見るのこれが最後やろな。もう二度と見なくていいわ。マックも残飯みたいな味するし」


その日、年に1、2回ある「無性にマック食いたくなる症候群」を発症していたわたしは、当時から残飯扱いしていたマックを食べた。食べるたびに残飯みたいに不味く、二度といんねえってなるのがわかっていながら、バカみたいに買ってしまった。

クソ不味いマックのハンバーガーと、もはやなんの感動もない、嫌というほど見慣れてしまった花火。8年前のあの日、わたしの人生から夏が消失した。

6年ほど前、2回夏祭りを見た。1回は池袋の盆踊り大会で、2回目は渋谷の祭り。池袋の盆踊りは偶然見かけたのでノリで参加したけど、まったく楽しめなかった。見ず知らずの人と向かい合って踊る羽目になり、苦笑い。ただただ気まずいだけだった。
渋谷の方は飲食付きだったのでほどほどに楽しめたけど、祭りで無償で配られる飲食物や諸々の経費が、いったいどこから捻出されてるんだろうってことだけ無性に気になった。祭りに参加したのも、それらが最後。

 

海、祭り、花火。夏の風物詩。どれひとつとして興味が持てない人生だった。

 

わたしの中のきらめく夏は、小学生の頃で止まっている。夏休みの透き通った空、セミの鳴き声、焼けたアスファルト。田んぼに水が張られ、アメンボウやカブトガニ、よくわかんない水生生物が泳いでるのを観察する。テレビをつけると北斗の拳

昼は母がそうめんを茹でてくれる。綺麗なガラスの器で、そうめんの上にちゃんと氷が乗っている。ネギ、生姜、胡麻、七味などの薬味もしっかり用意してくれる。手作り水羊羹、夏カレー、母と姉と一緒に行ったお祭り。キンキンに冷えた麦茶がつねに冷蔵庫にあった。毎日ワクワクの連続だった。あれ以上の夏は、もう二度と味わえない。

今このブログを書きながら、やっぱり自分は普通じゃないとシミジミ感じる。大人になって、1人で好きに過ごせるようになってから、夏を満喫したいなんて一度も思ったことがない。せいぜい洗濯物が早く乾くからいいねってくらいで、汗をかくのも、目を開けられないほどの日差しも、はなから好きじゃないのだ。

 

海、花火、祭りetc、夏の風物詩はすべて、母がわたしに与えてくれたものだった。

 

その母もまた、大人から教えられた形式的な夏の過ごし方に、人生の幸福を見出していた。

 

二度と取り返せないものだから美化されてるだけかもしれない。しかし、確かに幸せだった。

今のわたしは、世の中のほとんどに興味を失くし、ほとんどの事柄に価値を感じなくなってしまった。むしろ、無価値なものに幸福を見出し、必死でしがみつく現代人の姿が狂人のように見えてしかたない。

自分のためではなく、他人のために幸福を演じる道化。他人の目を通してでしか、自分の幸福を感じられない人たち。承認欲求、自己顕示欲、優越感に劣等感。他人の不幸の上にようやく成り立つ先進国の豊かな生活。利己主義の極み、享楽主義、殺戮の嵐。徹底的に狂ったこの世界で、花火を見上げて喜ぶ人たち。

 

狂ってるのはわたしでしょうか?

 

いいえ、あなたです。

 

ホラーちっくにおあとがよろしいようでw